私の道楽のひとつに、歴史を描いた古典&歴史解説書を読むことがあります。
元は歴史小説を読むのが趣味だったんですが、飽き足らなくなりましてね。
と言うか、その小説の元ネタは何なのか、そして、原本ではどう描かれていたか調べたくなったんです。
で、読んでいると、今まではとは違ったもの、絵のようなものが見えてくることがあるんです。
それが楽しくてやめられない。
一例をあげると、「平家物語」巻第十
壇ノ浦の合戦で、平時子が孫である安徳天皇を抱き抱え、海の中に身を投げるエピソードがあります。
『「波の底にも都の候ぞ」と慰め参らせて、千尋の底にぞ沈み給ふ』
「平家物語」の中でも、涙を誘う一節ではないでしょうか。
しかし、これを現在の感覚で見てしまうと、安徳天皇は時子によって心中の道連れにされたように見えてしまう人もいるでしょう。
また、角川ソフィア文庫の「ビギナーズ・クラシックス 平家物語」には、この部分にこんな解説が載っていたのです。
「さて、二位の尼(時子のこと)の執念はすさまじい。皇室と平家には君臣の壁があり、幼い天皇を道連れにするとは、分を超えた横暴である」
(カッコ部分は私の補足)
正直、角川ソフィア文庫のこの解説に関しては、この時代背景を知らない人が書いた説明かな?と感じちゃいました。
と言うのも、時子がここで安徳天皇と海に身を投げた理由、それにはこの時代特有のものがあったように思うからです。
おそらく、安徳天皇が源義経に捕まっても死刑になることはなかったでしょう。
これだけだと、自殺の道連れになるよりマシのように思えます。
が、捕まった後どうなるか。
それは生涯幽閉され続けることだったと思います。
1185年の壇ノ浦の合戦より、遡ること30年前、1156年に起こった保元の乱で、投降してきた崇徳上皇は讃岐に配流され、生涯幽閉されました。
その仕打ちを恨んだ崇徳上皇は、怨霊となった考えられています。
その崇徳上皇は、日本の歴史上で、菅原道真と並ぶ怨霊とさえ言われています。
時子が安徳天皇を道連れにした時、この崇徳上皇のことが念頭にあったはずなんです。
しかし、ここで反論を出す方もいらっしゃるでしょう。
保元の乱の時、崇徳上皇は大人であり、戦争責任を追及されるのは当然。
それに対して、安徳天皇は数え年で6歳、現代の満年齢なら4歳ほどの子供、責任があるはずないだろう。だから罪に問われるのはおかしい。
実は、壇ノ浦から四半世紀後、1221年に、承久の乱という戦いが起こります。
この時の天皇は、数え年4歳、今の満年齢では2歳の仲恭天皇でした。
承久の乱と言うのは、彼の祖父である後白河上皇と、彼の父である順徳天皇が起こしたものでした。
その承久の乱は鎌倉幕府軍が勝利し、天皇軍は負けて終わります。
その後、後白河上皇は隠岐の島へ、順徳天皇は佐渡島へと配流され、そこで生涯を終えました。
そして、仲恭天皇は16歳で亡くなるまで京で幽閉され続けたのです。
つまり、安徳天皇はこの場で助かっても仲恭天皇と同じ運命が待っていたと思います
それ以外にも、時子が安徳天皇を道連れにしたであろう理由があります。
この戦いの後、平家の血をひいた男の子たちは、見つけられると斬首されていました。
これは幼い子供であっても処刑されていました。
子供を殺された母たちの中には、その後、子供の遺体や首を抱えて、海や川に身を投げたようです。
その瞬間、彼女たちは自分たちの遺骸が四天王寺の西の海に辿り着くことを祈りながら入水していたように思われます。
これは当時、「四天王寺の西の海には西方浄土がある」と信じられていたからです。
四天王寺と言うのは、もちろん、大阪に残るあの四天王寺のことです。
当時の人たちにとっては、西方浄土に行くことこそが、生きる最大の目標と考えられていました。
そして、当時、首を切られると西方浄土に行けないとも考えられていました。
身を投げた母親たちは、何とか、子供が西方浄土に行けるよう、最善を尽くそうとしたのではないでしょうか。
さて、壇ノ浦ですが、これは関門海峡にあります。つまり、四天王寺の西の海と言えないでしょうか。
平時子は、かわいい孫を怨霊化させて地獄に行かせるのではなく、西方浄土に導きたいと思ったからこそ、安徳天皇を抱きかかえて海に身を投げたのではないでしょうか。
これらのことは「平家物語」を読むだけでは見えてきません。
この時代の前後に、どんなことが起こったのか。そして、人々がどういう行動を取ったのか、どういう思考をしていたのか知らないと状況は見えてこなかったのです。
もちろん、時子の行動を完全に支持することは、現代に生きる私にはできそうもありません。
ただ、時子が傲慢な考えで、安徳天皇を道連れにしたというのには、反論してあげたいと思ってしまうのです。
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