文化・芸術

文句たれオジさんのブログ

一,二年前にようやく、吉田兼好の『徒然草』を通しで読むことができました。
中学、高校の古典の授業で有名な段は読んでたけどね。
全段通しで読んだのは、それが初めて。

読み終えて感じたことは、
文句たれオジさんのブログ?
そんな感じ。
随筆文学って言うよりも、ブログエッセイって感じで楽しめました。

自慢話や文句が多い。
でも、笑い話を収集していたオジさんだったのね。
書き終えた頃って、兼好さんって、48~9才だったとか?
同世代のオジさんなんだな~。

さて、こうクソ暑いと、つい思い出してしまうのが『徒然草』第55段の冒頭。

家の作りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。暑きころ、わろき住居は耐へ難きことなり。
(角川ソフィア文庫『徒然草ビギナーズ・クラシックス』より)

要するに、家を建てるなら、夏向きに建てろ。
冬は何とか工夫ができるが、夏に配慮して建てないと住めたもんじゃない、と……。

まっ、兼好さんって、小金持ちだったらしいので、冬の薪木代に困らないんで、こう言い切れたんでしょうね。
普通、冬場の寒さの方が命にかかわる問題だと思うんですけどね。
でも、『徒然草』に書かれているのは鎌倉末期。
その頃ですら、京の猛暑は耐えがたいものだったんですね。

で、『徒然草』第55段、この後には、夏涼しく過ごせる工夫も載ってましたよ。
けど、現在役に立つかと言うと…………「?」
マンション住まいの私には無理な工夫でした。

はーっ、夏は始まったばかりなのに、涼しくなるのが待ち遠しいな~。

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平家物語の考察

私の道楽のひとつに、歴史を描いた古典&歴史解説書を読むことがあります。
元は歴史小説を読むのが趣味だったんですが、飽き足らなくなりましてね。
と言うか、その小説の元ネタは何なのか、そして、原本ではどう描かれていたか調べたくなったんです。
で、読んでいると、今まではとは違ったもの、絵のようなものが見えてくることがあるんです。
それが楽しくてやめられない。

一例をあげると、「平家物語」巻第十
壇ノ浦の合戦で、平時子が孫である安徳天皇を抱き抱え、海の中に身を投げるエピソードがあります。

『「波の底にも都の候ぞ」と慰め参らせて、千尋の底にぞ沈み給ふ』
「平家物語」の中でも、涙を誘う一節ではないでしょうか。

しかし、これを現在の感覚で見てしまうと、安徳天皇は時子によって心中の道連れにされたように見えてしまう人もいるでしょう。
また、角川ソフィア文庫の「ビギナーズ・クラシックス 平家物語」には、この部分にこんな解説が載っていたのです。
「さて、二位の尼(時子のこと)の執念はすさまじい。皇室と平家には君臣の壁があり、幼い天皇を道連れにするとは、分を超えた横暴である」
(カッコ部分は私の補足)

正直、角川ソフィア文庫のこの解説に関しては、この時代背景を知らない人が書いた説明かな?と感じちゃいました。
と言うのも、時子がここで安徳天皇と海に身を投げた理由、それにはこの時代特有のものがあったように思うからです。

おそらく、安徳天皇が源義経に捕まっても死刑になることはなかったでしょう。
これだけだと、自殺の道連れになるよりマシのように思えます。
が、捕まった後どうなるか。
それは生涯幽閉され続けることだったと思います。

1185年の壇ノ浦の合戦より、遡ること30年前、1156年に起こった保元の乱で、投降してきた崇徳上皇は讃岐に配流され、生涯幽閉されました。
その仕打ちを恨んだ崇徳上皇は、怨霊となった考えられています。
その崇徳上皇は、日本の歴史上で、菅原道真と並ぶ怨霊とさえ言われています。

時子が安徳天皇を道連れにした時、この崇徳上皇のことが念頭にあったはずなんです。

しかし、ここで反論を出す方もいらっしゃるでしょう。
保元の乱の時、崇徳上皇は大人であり、戦争責任を追及されるのは当然。
それに対して、安徳天皇は数え年で6歳、現代の満年齢なら4歳ほどの子供、責任があるはずないだろう。だから罪に問われるのはおかしい。

実は、壇ノ浦から四半世紀後、1221年に、承久の乱という戦いが起こります。
この時の天皇は、数え年4歳、今の満年齢では2歳の仲恭天皇でした。
承久の乱と言うのは、彼の祖父である後白河上皇と、彼の父である順徳天皇が起こしたものでした。
その承久の乱は鎌倉幕府軍が勝利し、天皇軍は負けて終わります。
その後、後白河上皇は隠岐の島へ、順徳天皇は佐渡島へと配流され、そこで生涯を終えました。
そして、仲恭天皇は16歳で亡くなるまで京で幽閉され続けたのです。

つまり、安徳天皇はこの場で助かっても仲恭天皇と同じ運命が待っていたと思います

それ以外にも、時子が安徳天皇を道連れにしたであろう理由があります。

この戦いの後、平家の血をひいた男の子たちは、見つけられると斬首されていました。
これは幼い子供であっても処刑されていました。

子供を殺された母たちの中には、その後、子供の遺体や首を抱えて、海や川に身を投げたようです。
その瞬間、彼女たちは自分たちの遺骸が四天王寺の西の海に辿り着くことを祈りながら入水していたように思われます。

これは当時、「四天王寺の西の海には西方浄土がある」と信じられていたからです。
四天王寺と言うのは、もちろん、大阪に残るあの四天王寺のことです。

当時の人たちにとっては、西方浄土に行くことこそが、生きる最大の目標と考えられていました。
そして、当時、首を切られると西方浄土に行けないとも考えられていました。
身を投げた母親たちは、何とか、子供が西方浄土に行けるよう、最善を尽くそうとしたのではないでしょうか。

さて、壇ノ浦ですが、これは関門海峡にあります。つまり、四天王寺の西の海と言えないでしょうか。
平時子は、かわいい孫を怨霊化させて地獄に行かせるのではなく、西方浄土に導きたいと思ったからこそ、安徳天皇を抱きかかえて海に身を投げたのではないでしょうか。

これらのことは「平家物語」を読むだけでは見えてきません。
この時代の前後に、どんなことが起こったのか。そして、人々がどういう行動を取ったのか、どういう思考をしていたのか知らないと状況は見えてこなかったのです。

もちろん、時子の行動を完全に支持することは、現代に生きる私にはできそうもありません。
ただ、時子が傲慢な考えで、安徳天皇を道連れにしたというのには、反論してあげたいと思ってしまうのです。

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歴史の中の男色

「増鏡」という書物があります。
室町時代に書かれた本で、鎌倉時代の京で起こった出来事を記した歴史小説……とでも申しましょうか?
その中に、ちょいと引っかかるエピソードがありましたので、ご紹介を……。

「増鏡」の第十三に「秋のみ山」という巻があります。
その巻末に、前関白・近衛家平が薨去した話が載っています。
そのエピソードなんですが……、超意訳で書き記すとこんな話。

前関白は、若い頃は少しは女性とも睦まじくしていたので、息子の右大臣・経忠も誕生したが、中年以降は男のみ、そばに寝かせていた。
(中略)
病が重くなり、臨終が近づいた時でも、今の愛人・頼基を見つめ「おまえと一緒に逝けたら嬉しかろうに」と言いながら亡くなった。
そばにいた息子は最後まで男色に執着しながら亡くなった父に対し、憂鬱になった。

近衛家平が薨去したのは、元亨四年(1324)五月十五日で、42歳だったそうです。

「増鏡」と言うのは、ある意味、小説であって、必ずしも事実とは限らないらしんですが、どうもこの件に関しては実際にあったことのようで……。
まぁ、息子としては、亡くなる寸前まで男の愛人のことを考えられていては、たまらんだろうな~と。

なお、このエピソードには続きがありまして、愛人の頼基もほどなく、病に倒れ、「すぐ参ります」と譫言を言い残し、亡くなったそうです。
人々は故家平があれだけ執着していたから、あの世から迎えに来たのだろうと恐ろしがったそうです。

男色というと、戦国時代の武将とか、江戸時代の陰間をつい思い出しますが、平安時代末から鎌倉時代の公家社会には蔓延していたようです。
正直、この手の古典作品を読むのは、こういうエピソードが見つかるのが面白くて読んでいるのでありました。

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